新海誠監督の「天気の子」を見てきました。
新海監督がインタビューの中で「賛否両論分かれるかもしれない」と言っていました。それが大変気になりながら…。
というわけで、
- 賛否両論分かれるのはどのあたりなのか
- 感想
をまとめてみました。
また、以下はざっくりネタバレを含みますのでご注意ください。
天気の子の賛否両論分かれる部分
賛否両論に触れる前に、天気の子について触れます。
作中の舞台は東京。東京では70日間にもわたる雨が続いていました。
そんな中、ヒロインである陽奈は「祈ると天気を晴れにすることができる」能力を持っています。
作中ではその能力を生かしてバイトをしたりするのですが、途中で
「天気を晴れに巫女は、人柱となる」
「天候をいじるには代償が必要」ことが説明されます。
つまり、「陽奈が死ぬことで、東京の天気が晴れに戻る」ということです。
陽奈は「能力」を使うことで、体が透明化、自分が消える時期をさとります。そんな中、主人公である穂高との会話。「やっぱり晴れたほうがいい?」「うん」穂高は軽く答えます。
次の日、陽奈は消え、空は晴れていました。
ここから、穂高の戦いが始まります。陽菜を取り戻すために奔走する穂高。警察を敵にし、上司である須賀と決別し、銃を発砲。最終的に穂高は陽菜と再会。そして、「晴れよりも陽菜を取る」選択をします。
そして東京には再び雨が。
作中ではそこから3年が経過し、東京が水没し始めていることを伝えます。
穂高の選んだ選択が、東京を水没させることにつながりました。
よくある「ヒロイン助かってハッピー、なんとなく世界もよくなったね」というエンドではなく、
ヒロイン助かってハッピー、だけど世界は悪くなったね
という終わり方になっています。
新海監督と、この作品のすごいところ
すごいと思ったのが、
穂高が世界の安定よりも陽菜を選んだ
…というところではもちろんなくて。ここだけだと、よく見かけるストーリーだなと思われます。なので、それはそれで大事なのですが、新海監督はここらさらに
- 穂高が陽菜を選び、世界に悪影響を及ぼした
- 穂高の選択により、悪くなった世界が作中で語られる
ことを描きました。
これは単純な正義と悪の2項対立とか、「主人公=正しい」という構図を真っ向から対立しにいってますよね。
それに、作品としてみるだけなら例えば陽菜を救ったシーンで終わってもよかったはずです。作中のBGMも盛り上がり、演出も最高潮、二人は手を取り合い此岸に帰還。ハッピーエンド。そうして映画を終わらせても、一定の評価を得られたと思います。
しかし新海監督はそこからさらにストーリーを続けます。
きっと、それこそが新海監督の言いたいこと=テーマなのでしょう。
穂高は3年経過後、卒業した地元の島から、再度東京へ向かいます。東京は陽菜が生還したあとから3年間、雨が降りやむことはありませんでした。雨量のために、東京は水没し始めていました。
あきらかに、穂高の選択が悪影響を与えています。
穂高は、陽奈に会う前に一人の老婦人と再会します。老婦人は、ストーリーの序盤で陽菜に「晴れ女」としてバイトを選択した人でした。穂高と再会し、「かつての家が水没した」ことを告げます。
ここで、穂高の選択が「東京というマクロな環境」→「知人のミクロな環境」まで、影響を与えました。
そして最後に、穂高は陽菜と再会し、自分の選択を確認します。
ただのファンタジー映画ではない? 濃密なリアリティ
天気の子ストーリーは、「穂高や陽菜のファンタジック要素(非正義)」と、「須賀をはじめとする警察官たちの現実要素(正義)」が絡み合って構成されています。
特に、非正義に関してはそつなく作られており、ふつうのアニメ映画であれば、この部分だけでも十分だなと思いました。しかしその非正義に対し、正義(常識)が、圧倒的なリアリティを持って食い込んできます。
穂高を船上で助け、衣食住と仕事を提供した「須賀」は、穂高のことを裏切ります。穂高が警察に手配され、須賀の家にきたときに、須賀はあっさりと穂高の首を切ります。
「陽奈が死ぬと、天気が晴れる。だけどそんなことも知らずにみんな暢気すぎる」
と主張する穂高に対し、
「誰かが人柱になることで、晴れるなら、仕方ないじゃないか」
と須賀は圧倒的なリアルで反論します。シニカルな大人の意見です。
また、終盤須賀は穂高のことを説得しようと試みます。
- 何も悪いことをしてない
- 二人で謝ろう
陽菜が消えたことにより、激情で頭が熱くなっている穂高に対し、どこまでも冷静な須賀の意見。
この須賀の存在により、僕ら視聴者の「これはアニメ映画でファンタジー要素を含んでいるけど、世界はリアルなんだ」というリアリティを感じさせてくれます。
須賀はどこまでも保身的で、リアリストで、視聴者の気持ちを代弁する大人です。須賀が登場することにより、「天気の子の要素としてのファンタジー」に、「あっとうてきなリアリティ」が肉付けされます。
天気の子のテーマについて
天気の子のテーマは、「選択」だったと思います。人によって感じ方は違うかもしれませんが。
穂高は「陽奈を救う」ことを選択する。それが間違い(というか、世界を変えた)ことが示唆される。
最後のシーンで、穂高の選択に対し、
- 上司だった須賀は、「お前の行動で世界が変わるなんておこがましい」と、助言めいたフォローをしてくれ
- かつての老婦人は「東京はもともと海だった。だからもとの形に戻っただけ」と肯定的(あきらめたのか?)感想を穂高に言います
その流れの中で、穂高は「自分の選択はそれほど間違いじゃなかった」と、気持ちを持ち直します。
そして最後、陽奈との再会のシーン。
陽菜は海にむかい、祈っています。そんな陽菜のまわりだけ一部分晴れており、桜が咲いています。
おそらくいろんな意見があると思いますが、僕はこうです。
陽菜は救われたが、「自分自身のために祈るんだ」という穂高の言葉により、祈ること(晴らすこと)はやめていなかった。
桜が咲いていたので、おそらく毎日(毎年?)その部分では、祈りを続けていた。
桜は瞬間的に晴れただけでは咲かないので、継続的に日光が当たるように晴れるぐらい、その場所を晴れにしていた。
そんなシーンをみて、穂高は、
「自分の選択は、東京という町からこんな風な世界を亡くしてしまった」
ことを自覚します。みないようにしていた現実、須賀や老婦人の言葉から救われ始めていた心が、「やはり僕は世界を変えてしまった」と気づきます。
そして、それでも生きていく風にして物語は終わります。
穂高が選んだ選択は間違いだった。世界は変わってしまい、いろいろなものが変わってしまった。大人はフォローしてくれるけど、やはり世界は元通りにならない。
けれど、「選びとる」ことが尊いんだ
そんな風な物語に感じました。
拳銃と手錠と逮捕
この映画の重要な部分として、「拳銃と手錠と逮捕」があると思います。
繰り返しになりますが、この映画は「子供(ファンタジー)」と「大人(リアル)」の対立が起きます。そしてふつうのアニメでは流されてしまいがち、物語ちっくになりがちな、「拳銃」「手錠」について、よりリアルに押し寄せてきます。
テーマもそう感じましたが、あまり子供向けではないのでしょう。16歳の少年が、拾った銃を発砲してしまう。そこから、物語の中なので、劇的な演出で逃げてもよかったのですが、「天気の子」では穂高は手配され、手錠をかけられ逮捕されてしまいます。
ファンタジーは圧倒的なリアルにつながれてしまいます。連行されるパトカーの中で、「陽奈に会いたい。みんな何も知らないくせに」と怒る穂高に対し、同乗している刑事は「うざってえ」と一蹴します。印象的なシーンです。
この世界では、子供(ファンタジー)に、大人(リアル)は寄り添いません。
おそらく、これも新海監督のこめた痛烈なメッセージなのでしょう。
まとめ
以上が、天気の子の感想になります。
ほとんどネタバレしたのですが、見どころはほかにもたくさんあります。
アニメーションはきれいですし、「ぐっ」とくるところも多いです。
特に梅雨の時期に見に行った方がいいです。
雨がこんなにうれしくて、晴れが切なくなることはありません。
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